
Marilyn Monroe
マリリン・モンロー
1926年6月1日 - 1962年8月5日
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。
本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)、その後改名してノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。1950年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」と称される。モンローという芸名は彼女の母親の姓である。
身長166.4cm 体重53.5kg B94 W61 H86、血液型AB型。
(井川遙のスリーサイズはマリリンモンローと同じらしい。)
トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。
ノーマは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:モーテンセン、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されていることから、彼女の本名はノーマ・ジーン・モーテンセンであることに異論はない。
日本語訳されている評伝の多くが、モンローは孤児だったと書いているが、母親が居たので孤児とは日本語では呼ぶことは出来ない。これは英語の誤訳である。モンローには異父姉妹の姉が居る。姉のことは後年、女優になってからも気にかけていたという。その姉はモンローの葬儀に参列している。 モンローの映画を手がけた20世紀フォックスはモンローのプロフィールで、年齢を2歳さばを読んで発表していた。そのため故淀川長治も、彼女が34歳で亡くなったと、TVの『日曜洋画劇場』で言ったことがある。
ノーマの母親は精神病を患っていた。グレース・マッキー(後Goddard)が、彼女の保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後で、ノーマはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られた。当時の大統領の政策で、里親にはいくらかの補助金が支給されたため、お金目当てで子供を引き取る家もあった。それでいくつもの家をたらい回しにされたり、大事に扱われなかったりした。
16歳で、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。その後、スカウトされてモデルとして活動し始める。彼女の夫はモデル業に理解を示さなかったため、結婚から4年で離婚。
当時所属していたモデル会社の名は、「ブルーブック・モデルズ・エイジェンシー」。ブルーブックとは、いまでいうアダルト本のことであり、モンローがヌードモデルをしていたことも頷ける話である。
1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役でデビューするが、あまりぱっとせずに契約を切られてしう。しかし女優への夢を諦めきれなかった彼女はコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。しかしコロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまう。その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探す日々が始まる。
1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出演、1952年の『ノックは無用』で初主演。1953年『ナイアガラ』での腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。
1954年2月1日に元野球選手ジョー・ディマジオと結婚。読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れたが、結婚生活は9か月しか続かなかった。
野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは一人ホテル(旧帝国ホテル)で待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。
暇を持て余していたモンローには断る理由がなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。彼女は戦車に乗り、多くの荒くれ兵士たちを前にして歌い、自分が一番光れる場所で光り輝いた。だが、韓国から帰ってきたモンローは、風邪を引いてしまう。治療のため呼ばれたのが、指圧の心の浪越徳治郎氏であった。彼は全裸のモンローに指圧を施した。(うらやましい!)
その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。マーロン・ブランドと『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。
1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性人格障害と診断されたが、正確なところは分からない。
1961年にアーサー・ミラーと離婚。この頃、ジョン・F・ケネディと交際していたと言われている。同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演のクラーク・ゲイブルが撮影終了後に亡くなったこともあって不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した(2番目の)元夫ディマジオが彼女を支えた。
1962年、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。5月(亡くなる3か月前)には、マディソン・スクウェア・ガーデンで催されたジョン・F・ケネディ大統領の45歳の誕生日パーティー(司会は俳優ピーター・ローフォード(ケネディの妹の夫))で『ハッピーバースデートゥーユー』を歌い、「いつ死んでも悔いはない」とケネディに言わしめた(事実、翌年凶弾に倒れる)。
1962年8月に36歳で死去。死の直後、マスコミでは死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。
ジョン・F・ケネディ大統領しかし1980年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている(謀殺説はモンローの死後間もない時期から存在していた)。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、電話局からは通話記録はなく、部屋からは彼女の日記(赤い手帳)が消えていた。仮に謀殺だとすると、電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主が関わっていたとする主張がある。
なお、ジョン・F・ケネディ大統領と不倫関係にあったことが死後複数の証言から暴露された上、お互いを紹介したのがマフィアに関係している人物であったことが、この謀殺説を後押ししている。
モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口常富である。よく日系2世と間違われるが純粋の日本人である。またモンローに戒名をつけた人がいる。キックボクシングの解説でも知られた故寺内大吉和尚。モンロー13回忌には墓前でお経をあげている。
その墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。彼女の死後、元夫ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカンビューティー)が供えられていた。ディマジオの亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられていて、今もバラが絶えることはない。
::The End::
Marilyn Monroe's Official Web site
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http://www.marilynmonroe.com/
The MARILYN MONROE Organisation (UK)
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http://www.marilyn-monroe.org.uk/
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